去年の暮れに入ってきた鶏たちの中に一羽、雄鶏が混じっていた。
毎朝、下手糞な鳴き声に起こされる日々が続く。 雌鶏だけで形成されてる我が家のトリコミュニティ、面白いことに一匹雄鶏がいることで、 全く卵を産まないおばあちゃん鶏たちが無理して卵を産む。 彼女たちはもう、いわゆる丸くてつるんとした卵は産めなくて、 代わりにボコボコした皮の薄い卵をうむ。 こっちが「もうやめとけば」と言いたくなるような。 老衰するまでずっと面倒を見るから、そういう面白い発見がたまにある。 そういう発見があるから、あぁ自分は毎日命を食ってるのだなと、言葉にすることはないが再認識している。 赤谷プロジェクトのチームで奥会津へ、桐の苗木をもらいに行ってきた。 この地で取れる会津桐は良質な桐材として有名で、生育環境としても奥利根と奥会津は非常に似通っているらしい。 桐は、杉やヒノキなどと比較して成長速度が極端に早い木材だ。一年目で3-4m前後まで成長する個体が多い。 もはや植物に近い気がする。 しかし町役場の担当者から聞いた話では、成長速度の速さは、 幹の伸長がある程度固まるまでの2-3年の間に密度濃く手間をかける必要があることの裏返しであるようだった。 芽が出たら木質化が始まる前に取り除くこと、残したい芽は動物に食べられないように対策したり。。。。 また、早い成長を支えるための豊富な栄養(肥料)が必要で、栄養が欠乏していると病気にさらされやすい樹だそうだ。 色々話を伺って、木を育てる文化が根付いているのを感じた。
林業(刈り取り)の対象というより、野菜や畜産のような生育の対象として森が存在する。 暑い日も寒い日も、木の都合に合わせて手間をかけなくてはならない。 それが出来る背景には、箪笥という最終的な結果(製品)に対するリスクとリターンを背負い続けてきた、 地域の歴史があるのかもしれない。でも他に、取りうる選択肢なんてあったのだろうか? 色んな稼ぎ方の選択肢がある世の中というのは、 個人や集団が向き合う面倒なリスクは外部化され、代わりにリターンは画一化していく気がする。 何かと向き合うことをやめれば、そこから得られるものも限られてくる。 大体みんな同じようなリスクを捨て、結果として同じようなリターンを得る。 品質向上のための木の生育に手間をかけるのはやめて、 バラツキのリスクは代わりに薬剤や加熱処理や接着材等、 木以外の要素によって処理しよう。 そこで生み出される箪笥はおそらく、 日本全国どこで作ってもあまり大差ない仕上がりとなる。 だからこそ「差別化のためのデザイン」や、 食いつきやすい話題性やストーリーが大切になってくるのだろうか。 そして差別化や広報戦略と向き合っているうちに、 木の生育と向き合う本来の能力が地域から損なわれていく。 リスクテイキングが致命傷のレッテルを貼られるようになる。 (「気長に人を育ててペイするビジネスモデルなのか!?」) 問題は今の世の中が、 過去にないほどリスクを手放しやすい点にあるかもしれない。 奥会津のこの町と、そこで育つ会津桐は、 良い時代も、悪い時代も当然経験したと思う。 桐箪笥の国内市場は過去が良い時代で、今は悪い時代の部類に入るかもしれない。 でも土地の記憶が詰まった桐の生育を放棄するという選択肢は当分ありえないだろう。 それはいろんな稼ぎ方の選択肢を持ってしまった個人や集団には決して選択できない、 土と歴史の匂いがする道のように思える。 雪が降る前に、たまっていた丸太の製材を急ぐ。
直径70-80cmくらいの丸太を製材したのは今回が初めてだった。 クルミだと思う。断面の亀裂から製材方向を決めて、 面倒でしかも危険だが何度も機械の上で丸太をゴロゴロ回しながら切っていったら、 手間はかかるが節の無い美しい材が大量に取れた。 古い機械を使うからだと思うが、 製材機は扱う人間にまったく合わせてくれない。人が機械に合わせて動くしかない。 自然に育った不整形な丸太をその機械に投入するというのは気を使うことばかりだ。 かなりごつごつした楕円形なので、すぐ転がってしまう丸太。 下敷きになれば大けがでは済まないし、 投入角度が決まって無事に帯鋸(おびのこ)で切れたとしても反対側で押さえてやらないと 材がはねて材が傷ついたり事故のもとになる。 製造工場のような安全管理の唱和もない。 腰痛を未然に防ぐための運搬重量の制限は誰もかけてくれない。 危険を感知して緊急停止してくれるセンサーもない。 均一な投入素材なんてものは絶対に期待できない。 CADソフトウェアに期待するようなアップデートを機械にも素材にも期待できない以上、 (もちろん不具合が起きたら自分で何とかするしかない) 自分が変わるしかない。要は、まあそういうものなんだと、 PCの前にいたり会議室で発言している時の自分とは 全く違う人間にならなければいつか怪我するというのは 自分にはどうすることも出来ない事実なんだと認めるしかない。 代わりにというか仕方なくというか、 そんな日は一日の終わりに自分がアップデートしてることに気づく。 PC周りはいつまでも片づけられないのに、その何倍も広い製材所の掃除、整理整頓を徹底的にやってしまう。 それが自分にとって生きるということと、面倒な理屈抜きで強烈に紐づいてしまっている。 今月の赤谷の森活動日。 湿地の水位を確認して、整備作業。 一休みに、落ち葉の上で淹れる珈琲は格別に美味しい 今回はつくばの友人が参加したが、それと知らずセンブリのつぼみをかじって悶えていた。
一か月分の忙しさをリセットしてくれるような休息、 日常では出会えない小さな冒険、 また来年も味わえるだろうか。 クマタカ調査に同行させてもらった。
生き物相手のリサーチはなかなか大変だが無線で情報共有しながら鳥の生態に少しずつ迫っていく。 ひとつの小高い山、尾根すじの方角とか、人間にとっては大した意味を付与できないそういったものにも、 空飛ぶ存在にとっては明確な意味があるらしい。 巣と狩場という、生命維持空間が自然形状に大きく制約を受けているということ。 森の内側にいると近すぎてなかなか気づけない視点だ。 自分の知らない森の姿が、まだまだたくさんある。 だからアカデミックな調査が必要とされるのだろう。 調査というとどこか堅苦しく聞こえるが、 僕たちはヒトであってデータ処理装置ではない。 ヒトとして根源的に知りたいのは多分、客観的な事実などではなくて、 クマタカが見る山、川、森は一体どんな姿なのだろうか、だと思う。 長年調査を続ける人たちの会話の端々からそれを感じる。 観察と推論。 それが人類の得た大切な能力なんだと教えられた気がする。 自分自身は、最近そういった能力を鍛えていないなと思う。 シンプルな答え。見える化されたデータ。 そして、、情緒的な物語。 そんなものが好きだ。 手頃で、人に伝えるのがラクなほど(ミスコミュニケーションが起きにくいほど)いい。 しかしそれは、自然が相手となると必ずしも得策ではないようだ。 何となくだが、観察と推論の放棄と物語指向は同義であるような気がし始めた11月。 観察と推論は個人的なものだが、物語はシェアされる。 観察と推論は現場のものだが、物語は駆け巡る。 当たり前のことだが、物語を作るのも人類の得た大切な能力だ。 専門家でない普通の人が自然を見るとき、言語化された意味を欠くと、 ただの風景になってしまう。 結論は分かり切っている。 森とだけ向き合って生きていくことは現代では不可能だ。 個人的な観察と推論だけでは森も人も老いていくだけだ。 ならばやるべきことは、物語の質を上げることではないか。 課題の抽出は現場で正しく行われているか。 解決策は社会に正しく認知されているか。 |
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March 2019
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