クマタカ調査に同行させてもらった。
生き物相手のリサーチはなかなか大変だが無線で情報共有しながら鳥の生態に少しずつ迫っていく。 ひとつの小高い山、尾根すじの方角とか、人間にとっては大した意味を付与できないそういったものにも、 空飛ぶ存在にとっては明確な意味があるらしい。 巣と狩場という、生命維持空間が自然形状に大きく制約を受けているということ。 森の内側にいると近すぎてなかなか気づけない視点だ。 自分の知らない森の姿が、まだまだたくさんある。 だからアカデミックな調査が必要とされるのだろう。 調査というとどこか堅苦しく聞こえるが、 僕たちはヒトであってデータ処理装置ではない。 ヒトとして根源的に知りたいのは多分、客観的な事実などではなくて、 クマタカが見る山、川、森は一体どんな姿なのだろうか、だと思う。 長年調査を続ける人たちの会話の端々からそれを感じる。 観察と推論。 それが人類の得た大切な能力なんだと教えられた気がする。 自分自身は、最近そういった能力を鍛えていないなと思う。 シンプルな答え。見える化されたデータ。 そして、、情緒的な物語。 そんなものが好きだ。 手頃で、人に伝えるのがラクなほど(ミスコミュニケーションが起きにくいほど)いい。 しかしそれは、自然が相手となると必ずしも得策ではないようだ。 何となくだが、観察と推論の放棄と物語指向は同義であるような気がし始めた11月。 観察と推論は個人的なものだが、物語はシェアされる。 観察と推論は現場のものだが、物語は駆け巡る。 当たり前のことだが、物語を作るのも人類の得た大切な能力だ。 専門家でない普通の人が自然を見るとき、言語化された意味を欠くと、 ただの風景になってしまう。 結論は分かり切っている。 森とだけ向き合って生きていくことは現代では不可能だ。 個人的な観察と推論だけでは森も人も老いていくだけだ。 ならばやるべきことは、物語の質を上げることではないか。 課題の抽出は現場で正しく行われているか。 解決策は社会に正しく認知されているか。 Comments are closed.
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March 2019
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